どれほどにも小さな音でも電車の中の隣の人の音漏れは、気に障る。
いわんや、電車の中での携帯通話にはイライラさせられる。
ところが、赤ん坊の泣き声には笑顔にさえなる。
私は道後温泉に住んでいますが、もう秋祭りの勇壮な「鉢合わせ」の
準備が始まっていて、それは、もう大きな掛け声が日曜日の朝から聞こえる。
そして、そこから若者達の元気な声に私はエネルギーを貰っている。
この違いは何だろうと思う。
それは私の中にある心の風景と繋がっている気がするからではないのか?
音に連なる心の風景。
携帯通話には、ネガティヴな何かの風景が
赤ん坊や秋祭りには、ポジティブな何かの風景が
私がイライラしたり、気に障るのは音自身や
赤の他人のマナー違反に怒っていると言うよりも
その人の無神経な荒寥たる心の風景が
私の心に侵入して来そうで耐えられないのだろう。
何かに怒ったり、悲しんだり、喜んだりするのは私の中の大切にしているものに
心が反応しているんだと思う。
もう良い年齢になりました。
明日の朝は、鳥のさえずりに微笑んでいる私でありますように!
イヤやっぱり、
不誠実や不正義には心から怒れる私でもありますように!
還暦過ぎても老成なんかしませんように!
高校からの同級生に博多弁でこう言われます。
「お前、高校時代から、いっちょん(少しもの意味)変わっとらんな」
有難いことですよね(^^)